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コラム

第102回

「飲水思源」

年齢を重ねていくということは、当然、同時期に生きてきた人の人生もリアルに垣間見てしまうので、過去と現在を、外見も含めて比較せざるをえない。

因果応報とか、自分でまいた種とかと、折につけ私に向かってくる言葉も、周囲を見直す事で更に納得できる。結果、自分に恥じない生き方をした人が、人生の成功者となる事に今更ながら気が付いた。

この場合の恥とは、自身の判断であり、他人の尺度ではないので、あんな恥さらし!と周囲に罵倒されても、本人が思わなければいいのである。ただし、卑劣で非道な行為は、人間としての価値も尊厳もないことくらい自覚はしているはずだ。

恥ずかしいから、すぐに威嚇したり、虚勢をはったりする。そういう必要のないのが、誇りを持って生きているひとである。

「飲水思源」とは、あらゆる面で、最初に井戸(ことを始めて)を掘った(現実にした)人やその事を忘れずにいることだという。

そもそも、始めの何かをする人は、必ずや何かの犠牲を払っているものだ。時間や、金品や、情愛や、友人や、時には名誉も、最悪は命を持って、始めの一歩を創造する。

その人に、その事に対して恩を忘れずに、大事にするという意味で、作り上げたものに対して敬意を払い、尊重する事だと、これは私なりに解釈した。

しかし、私のように、口ばかりの感謝ではなく、具体的な恩返しができたとしたら、大成功者である。誇り高く生きれると思う。

人間は一人で生まれてくるわけはないし、一人では生きられないから、生きるためには、多くの愛情や努力の上に成り立つあらゆるものに支えられている。その事を自覚している人と、そうでもない人は幸福感や幸福量が違うのだ。

現に若いころから感謝の気持ちが強い人は、不安から縁遠い豊かな老後を送っている。やはり、昔からの言い伝えは間違っていない。物心ついてからの50年が大事なのだ。

そして、この飲水思源の意味を確認した時に思い出した方がいる。今や天下の孫正義氏である。私は知人でも関係者でもないのだが、人となりを身近に感じた時が数回ある。

始めは、藤田田氏が孫さんの事を、優しく目を細めながら語ってくださった時。二度目は早川電機の功労者佐々木正氏から孫さんの恩返しのスケールの違いを伺ったとき。ある方のコンサート会場での吉井との会話に懐かしさと感謝の心を感じた時。最近でもデザイン関係の方から、始めを忘れない凄い人だという逸話を伺った。反面、その逆の場合は、どうかは考えたくない。考えない方がよさそうだ。

いずれにしろ思いの強い人物だということは、過去20年を回想するだけで、誰もが納得しているはずだが、成功要因の一つには、この徹底した飲水思源の心得もあったのだと思う。

意識せずに行って、名声を得た今も変わらず同じであったら、益々すごい事になる。次は、何がくるのだろうか。

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