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コラム

第222回

「中庸(ちゅうよう)を心がけて」

中庸とは、物凄く簡単すぎるほどに言わせてもらえば「バランス」だ。]

「中庸」は、孔子(中国(春秋時代)の思想家であり学者。儒教の祖としても知られる。)由来とされていて「中庸の徳たるや、それ至れるかな」つまり「偏ることなく、いつまでも変わらない道徳というのは最高である」ということを述べられている。

また、古代ギリシャの哲学者であり、プラトンの弟子であるアリストテレスも「中庸」とは両極端になることを道義に外れた言行とし、これを避けて正しい中間を選ぶことが徳であり、この正しい中間が「中庸」と諭されている。

では、そもそも「徳」とは何か?それは倫理や道徳に関連する概念であり、人々が善行を追求し、良い人格を形成するための基本的な価値観というべきか。

例えば、他人に対する思いやり、誠実さ、正直さ、勇気、忍耐、謙虚さなど、良い行動や質を示す事を過不足なく、ちょうど良いバランスで行動できるという人は、素晴らしい人格者であり、それによって本人も幸福でいられるという。

そういえば、会食の抵抗が薄れた事で後輩の女性陣との久し振りの会が続いている。 皆さんそれなりの年齢になり、重責を担うキャリアを立派に勤めている。

ど真ん中昭和世代なので、今では不適切にも程があるような言語が飛び交う事もあるが、それぞれに深く様々な事情を抱えながらも優雅に美しく、逞しく日々を過ごしている。

そんな彼女達に共通しているのは、程よいバランス感覚である。

女性ならではの苦渋をこの持ち前の徳で乗り越えて今があるのだと納得した。

それにしても、何事にも縛られず自由に生きる為のあらゆる術が、時代が進むにつれ増え続けている。男女の差別、区別も薄れ、今や、異性という言語も消えそうな時代である。

家族の概念も変化していく日も近いと思う。なにしろ、シンギュラリティは始まっている。ロボットに家事を始め子育てや介護まで任せるのも遠い話ではない。

となると、生活スタイルもキャリアに対する思考も変化していかざるを得ない。

だからこそ、未来に向けて益々中庸は大事だと思う。なんならAIの皆様方にも中庸的感覚を覚えて頂き(このあたりAI研究者の方が日々努力されているらしいが)野暮な歴史を繰り返す人類の愚かさを補って頂きたく思っている。

勿論、人類にとってこそ理想の人格なのであるから、我々は日常において中庸を目指さなければならないのだが、立派な思想家でも哲人でも難しいとされているのだ。

せめて心がけるというだけでも何かの時に役に立つのではないかとも思っている。

怒らず、恐れず、哀しまず、逞しく、潔く、そして優しく。バランス良く生きて日々を楽しもうではありませんか。

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