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コラム

第153回

「残念な生き物には」

『残念ないきもの辞典』という本を棚に並べようとしていたら、いつのまにか収集していた本の傾向に気が付いた。介護、葬儀、老人系、孤独系ワードのエッセイ、もしくは小説類で占められている。

仕方がない、人間とは正直な生き物だから、心理が購買行動に出ているわけなんだ。なにしろ、ここ数年来、人生の経年劣化との闘いに拍車がかかっているのである。

少しでも気を抜くと老化という最大の敵に心も体も仕留められる。でも、ついつい、落ち込みがちな気分を奮起させるために、表紙のワードはともかく、それでも、自分らしく生きるためには、前向きに動くしかないという内容のものばかりを極力選択している。

今回も、絶滅寸前のいきものたちのようにならない為に、ともかく前向きに動くしかない!ダチョウの如くウドの大木に、毒を食べて寝るしか出来ないコアラや、怠慢のあまり飛べなくなって食べられるだけの鳥、カカポのようにならない為に。

なにより一日でも多く、朗らかな気持ちで生きる為に前向きに動くしかない!という気に結局はさせてくれる本であった。ただ、いきものが紹介されているだけの辞典だけど。

ともかく、そんな気分、(古くたっていいじゃないか、まだ人間だものという気分)もあってか、最近は、古物の持つ独特の世界観に惹かれている。良いものは年数が経っても変わらないどころか、むしろ価値が上がっていくというところに、ある種の希望?いや救いを見出せるのだ。

そういえば、あの有名な鑑定番組も変わらず高視聴率だし、巷では骨董市があちこちで開かれ、ネットにいたっては、オークションも益々盛んだ。そのうえ、今や、手作り品どころか、全くの私物さえも、個人間で売買する事が当たり前になってきている。私物売買、古物販売、物々交換と、方法は様々だが、中古でもなんでも、使える物を大切にしているのは、いい風潮だと思っている。

しかし、やはり、人生を懸けた専門家の作品や、名人の骨董品に出会うと、違いが歴然とわかるし、その工程や気迫に感動を覚える。手元におけなくても、美術品や伝統工芸品は必見に値する。また、100年近くの歴史を経てくると、名もない食器でも、物知りの長老様の感があって頼もしい。

そもそも、私の骨董への興味は、画家で骨董にも造詣が深い方から頂いた食器から始まった。なんて、使い心地がいい。なんど眺めても飽きが来ない。何故だ?というところからである。

私好みを理解してくださっているのが一番だけれど、長い年月を奇跡的に損壊せずに存在し続けた物は、お皿でもグラスでも置物でも、時別な格を持っていると思う。これからも、大事にする事は間違いない。

物と一緒にしているわけではないけれど、何事にも一生懸命に生きて、社会に貢献し、成功した人には、その分の魅力が輝きになり最後まで尊重される。

気づくのが遅かった私はガラクタまっしぐらだが、でも最後まで、前向きにがんばって、せめてレアパーツの一欠けでも残したいと思っている。

残念な、生き様だったと後悔しないように。

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