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コラム

第182回

「恕を持つべし」

人は、日々の生活の中で様々な理不尽に遭遇して生きている。仕事関係においては取引先、上司、先輩、同僚との間でも「なんで私が・・」と溜息をつくこともあるはずだ。

理不尽な事は、豊かに暮らしていようが、つつましく生きていようが関係なく、その人生なりの課題や壁としてやってくる。なので、自分が受けた理不尽は、自分で対応していくしかない。自分の心の中にしか解決策がないからだ。

ここのところ、そんな風に考えてしまう話を続けて耳に挟んだからか、ふと、10年前にお会いした、堀場製作所創業者の堀場さんの事を思い出した。

私は、人一倍臆病者なので、何か新しい事に踏み出す勇気に欠けまくるし、老いに対しても不安はつきないのだが、そんな時思い出すのは、堀場さんの恐怖に関してのお話である。

「人間が本当に怖いと思うのは、殺される事と、食べ物がなくなるという事だよ」と、理不尽の極みの戦争を体験された方の本気の言葉が常に心に残っている。

堀場氏は、試練を乗り越えて事業を成功させ、ベンチャー支援も含めて社会に貢献された方である。そして私が「恕」を知る切っ掛けになった、まさに恕をもたれた方だ。

恕とは、思いやりであり、人として一番大切なものは恕であるという賢人の教えである。言い換えれば、思いやりのない人は人として幸せなのだろうかと思う。

ともかく、恕を持たぬ人は、弱いものに対して強くなる。自分の優位な立場を利用して人を追い詰めるのである。つまり理不尽な人間だ。しかし、その相手にだけ非があるだけではないかもしれないのである。

では、その鬱積した思いはどうすればいいのかというと。自分が理不尽な目にあっても、その因果関係を理解して、うろたえない為に武器を持つべきで、それは知識や見識を絶すことなく日ごろから学ぶということだと、遠い昔からの賢人や偉人の方々が教えてくれている。

そして、人に優しいというのは素晴らしい事だが、恕を持つ思いやりが深い人と、気が弱くて優しい人とは違う。

ふと見た、TV番組の中で、はっとしたシーンがあった。「なんで、わたしばかり、こんな目に会うのでしょうか?」と、泣きながら訴える気の弱いサラリーマンに、笑いながら答える悪党のセリフは覚悟のない人はどこまでもつけこまれるという内容だった。

もちろん、ドラマなので軟弱なサラリーマンがついに覚悟を決めて行動をおこし、少し強くなっていくという設定であるが。

世の中には、そういう優しい人間を利用したり、自分より弱い立場の人との約束をたがえたり、自分本位で差別をしたり愚弄する方々がいるものだが、そういう方は、恕を持てない気の毒な方だと思いながらも、近づかないように自分の心を強く持てばいいのだ。

気が小さくても強ければ、小さくても恕を持てれば、より幸せに生きる事ができるのだから。恕は持つべし!なのである。

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