column

コラム

第262回

「父と私」

父・吉井剣之介が昨年の10月13日、他界致しました。享年94歳でした。

父は、新潟市寺山のお寺と大農家の旧家の生まれで、地元の中等学校を終えると北越製紙に入社しました。しかし、それも束の間、第二次世界大戦が勃発し召集され、陸軍の兵隊で終戦を迎えました。この頃のことは多く語りませんでしたが、飛行機を迎え撃つ任に着いた時、死を覚悟したそうです。戦後に帰還し、その後、北越製紙に戻り、実家の農家とお寺を手伝いながら懸命に働いていました。

近所の吉井家の長男が戦死し、吉井家の祖父に見込まれ、父は小学校の同級生だった母と結婚し、吉井家に入りました。その後、会社を辞めたくはなかったようですが、家業の農業に専念することになりました。間もなく長女が生まれましたが、一歳で亡くなり、その後長男と次男と私が3男として生まれました。昭和27年、祖父が他界し、父は吉井家の17代目となり、祖母や母の兄弟や子供たちを含め9人の大家族を支えました。

一生懸命に仕事をし、大農家ではあったものの、それだけでは家族を養えないと、借家やマンション、車工場や店舗などの賃貸事業によって大家族を支えました。母は、父が作る野菜やイチゴを訪問販売して、日々の生活費を稼ぎ、祖母が子供たちを育ててくれました。

父は、3男の私を、甘やかすことなく常に自立と責任を求めました。小中学生の頃、私は生徒会のリーダーを務め、成績も運動もトップクラスだったので、母はよく褒めてくれましたが、父に褒められた記憶は一度もありません。
父との思い出は語りつくせませんが、25年前、独立することを伝えた時、「社員にはどんなことがあっても、給与は延滞しないで払え」と、真剣な眼差しで言ってくれた言葉が忘れられません。父は、多くの中小企業や親族の窮地に関わってきただけに、会社は人なりであり、社員の生活を守る責任を痛感していたのだと思います。心中心配だったと思います。

本年インターウォーズは、25周年を迎えました。私がインキュベーション会社をここまでやってこられたのは、人に尽くす父の生き様を見て育ったお陰だと思っています。私の選択した生き方に一切口を出さず、上京した折に新聞紙に一万円札を束にして包んで、「何かあった時に使え」と、上野駅で父から貰ったお金は今も使えません。

亡くなる前の1年半程、介護施設で過ごしました。時々顔を出すと、満面の笑顔で迎えてくれ、愛おしい父との時間になりました。幸い実家の兄夫婦や母が、最後まで毎日のように施設に通い、元気に過ごしていました。亡くなる数時間前、夕食を完食して10月13日眠るように息を引き取りました。大往生の老衰でした。戦争や婿養子に入り艱難を乗り越え、大家族と親族や中小企業を支え、質実剛健で人に尽くした人生でした。何があっても、正面から向き合う父の背中は、大きくかっこよく、敬愛する師でもありました。

通夜・葬儀には、本当に多くの方々にお越し頂き、また斎場に入りきらない程の供花をお送り頂きありがとうございました。父の生き様・精神・背中を想いながら、今後も、人や社会の役に立てるように在りたいと思います。今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

功徳無量
「今の自分の幸福は決して自分一人の力ではなく、先祖が積んだ徳によってもたらされている、ご先祖に感謝を」

コラムを毎月メルマガでご購読